タンゴの歴史⑤【低迷の時代とモダン・タンゴ】

キンテート・レアル

◆モダンタンゴの時代

1950年代半ばを過ぎたころから、タンゴは長い低迷の時代を迎えることになります。

政情不安が時代に影を落としつつありましたが、それ以上にこのころになると特に若い世代にとってタンゴは次第に「自分の親、祖父世代の時代遅れの音楽」とみなされていったのです。人々の興味は外来のロックやジャズなど、そして新しい動きが見られるようになったアルゼンチンの民族音楽であるフォルクローレの方に移っていき、タンゴの人気は低迷しました。

このような時代の流れに押されて、10人を超えるような大所帯のオルケスタ・ティピカは、経営不振となり次々と解散していきました。

そんな中、精鋭ぞろいの小編成の楽団によって、古い作品を現代的な解釈と高度な演奏技術で聞かせるスタイルが生まれ始めます。
代表的なものはオラシオ・サルガンが1960年に結成したキンテート・レアル。
バンドネオン、ピアノ、バイオリン、コントラバス、エレキギターによる5重奏という編成で、従来のタンゴのレパートリーにモダンな解釈を加えて、「聴くためのタンゴ」としての魅力を新たに引き出しました。
オリジナル作品としては「ア・フエゴ・レント」「ドン・アグスティン・バルディ」などが有名です。

「軍靴の響き」「タンゲーラ」などのマリアーノ・モーレスも6重奏団や、対照的に大編成によるシンフォニック・タンゴ(主に欧米市場を狙った)を使い分けることで成功をおさめ、息長く活動しました。

1959年からプグリエーセ楽団に在籍したバンドネオン奏者のフリアン・プラサも、この時期に現代的感覚と古いタンゴの魅力を併せ持った、個性的な作品を書いています。(「ノスタルヒコ」「ノクトゥルナ」「パジャドーラ」など)

タンゴの不遇の時代ではあったのですが、演奏技術や楽曲の解釈、作曲・編曲技術については、かえって磨きがかけられた時期であったといえるかもしれません。

◆『タンゴの革命家』アストル・ピアソラ

アストル・ピアソラ

画像:Wikipedia「アストル・ピアソラ」より

アストル・ピアソラは1939年からトロイロ楽団に在籍し、演奏技術・編曲技術ともに高い評価を受けていましたが、1944年にたもとを分かち、独自の前衛的な活動を開始します。
このころからピアソラは若き日のアルゼンチンの大作曲家アルベルト・ヒナステラに師事し、作曲技法や音楽理論を学んでいました。

1950年代はじめには「プレパレンセ」「勝利」「ロ・ケ・ベンドラ」など伝統的なタンゴを一歩進めた個性的な作品を発表しますが、それに飽き足らずさらにクラシック音楽を学ぶため渡仏し、名教師といわれた音楽家ナディア・ブーランジェに師事しました。
ブーランジェに自分の原点がタンゴにあることを看破され、「決してタンゴを捨てないように」と助言されたピアソラは、決意を新たにアルゼンチンに帰国後、本格的なタンゴ革命に乗り出します。

1955年以降、さまざまな楽団の結成、解体を繰り返しながら、クラシックやジャズの要素を取り入れた前衛的なタンゴを次々と発表。その作風はアルゼンチンタンゴにルーツを持ちながらも、タンゴを客観的にとらえ、現代的な感覚を巧みに表現した独自のものでした。

特に1959年の「アディオス・ノニーノ」以降はその作風がより一層確立され、60年代は「ブエノスアイレスの四季」の連作や、ムニョスの前衛演劇のために書かれた「天使の組曲」、作詞家オラシオ・フェレールと組んだ小オペラ「ブエノスアイレスのマリア」や大ヒットした「ロコへのバラード」などの一連の歌曲など、大作、意欲作を次々と発表します。

彼の活動は若者、知識人、内外の音楽家などからは熱烈に歓迎されましたが、その過激な言動も相まって、保守的なタンゴファンからは「タンゴの破壊者」と猛烈な非難を受けました。

1970年代以降は海外での活動が多くなり、特に1970年代後半からの後期5重奏団を中心とした演奏活動は各国で絶賛され、1992年に死去した後もその作品への評価はますます高まっています。